安芸の宮島 巌島神社 干潮 鳥居の地面からの姿 貴重な画像

2009.9.1

 

安芸の宮島

  巌島神社

    幻想的な神社です・・・

     日本の象徴の富士山とならぶ、海に浮かぶ朱色の鳥居と神社本殿・・・

 

昔から「神の島」として、崇められてきた、瀬戸内海に浮かぶ歴史と浪漫の島

        巌島神社の雅やかな社殿や朱塗りの大鳥居が、

              紺青の海と島に自然に見事にマッチしており、

                 平安朝の優雅さを醸し出してます・

 

  

 

  前回に訪れたときは、本当にそのものでした・・・

    が、今回は「アレレレ・・・」と、思う光景です。

 

幻想的な・・・海に浮かぶ、神々の国「日本」のイメージは???

 まったく考えてみいなかった・・・ソノ光景なのです

   しばしビックリやら、ガッカリやら・・・でしたが、

    心を切り替えて、ブログの記者になったつもりで・・・

     誠の姿、安芸の宮島  巌島神社 大鳥居の紹介です

       非常に貴重な写真です・・・・

         きっと、この写真は観光を売りにしているポスターには絶対に写せない姿ですが

           貴重な姿なので、シッカリ 沢山 写真を紹介します・・・

 

第一弾  大鳥居の紹介

 

 

P1110135.jpg

 

                      想像外な光景です・・・

                勿論、大鳥居の下まで、歩いていきました・・・・

           この、建築はきっと、引き潮の短い時間に、作業をしたのかな??

          満潮になったら、木がフワフワと浮いて、どんなに作業が困難だったのかな??

        そんな、こんなを想像しながら・・・拝観してましたね・・・

 

では、連続写真を見てくださいね・・・

 

 

P1110109.jpg

P1110114.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずーーと、砂地になってます 海の匂いがプンプンしてきます

  砂浜には、小さな生き物が動いてますよ・・・・

 

        船の上から眺めている、大鳥居が、何と頭上にあります。

           何ともいえない、面持ちになってきました・・・・・

              自然のすごさをと、自然のいたずらに感激です・・

 

  干潮の時間 これから約1時間は続きます・・

 

P1110115.jpg

P1110116.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柱の、色が変わってるでしょ・・・

  白くなってる部分までが、通常は水中の沈んでます・・

       その、柱の大きく太いこと・・・

          柱の、水中に沈む部分は鉄板のようなもので、囲まれてます

            勿論、朱色に塗られてましたが

 

P1110118.jpg

P1110119.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の大きさと、柱の太さを比べたら一目瞭然・・・デッカイ・・・

 

P1110125.jpg

P1110126.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ここが、真下になります

P1110127.jpg

P1110128.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1110129.jpg
P1110136.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         海から、撮影した本殿です・・・

2009.9.11紹介  安芸の宮島 巌島神社 狛犬に性別のシンボル 必見画像紹介

  なかなか、面白発券の内容です

 

 

★文化遺産「巌島神社」 ウンチク★

厳島神社は、広島県の厳島(宮島)にある、神社です。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社で、1996年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

「世界遺産条約」の目的は、普遍的な価値を有するかけがえのない人類の遺産である文化財や自然を、破壊から守り、保護し、次世代に残していくために、世界中の人たちの国際協力を推進することにあった。この「世界遺産条約」のもっとも特徴的なことは、それまで相反するものとされてきた動植物をふくむ自然と文化とを、じつは密接な関係があり、ともに保護することが大切と見なした点にある。自然と文化とは対立関係にあるのではなく、お互いに補完関係にあるという考え方を提唱している。実際、人類が創り出した歴史的建造物は、周囲の自然とよく調和し、また、各国の自然景観には、古代からの民族の痕跡が残されていることが多い。

 

 

安芸の宮島 巌島神社 狛犬に性別のシンボル 必見画像紹介

神社に、狛犬が鳥居が必ず・・見かけます

  狛犬は頭から角が出ています。

   獅子は、角がないのです・・・・

   大陸・シルクロードとともに中国 

     中国から仏教とともに、日本に伝わってきたのです・・・

 

  何気に見てるのですが、

    一般的に、左側に、口が開いてますけて

           右側には口が閉まってます

             

 その意味には、一般的に知られてることは

     口を開いたものを「阿形(あぎょう)」といい

            閉じたものを「吽形(うんぎょう)」といいます

             ↓   ↓

      「阿形(あぎょう)」で、日本の五十音が「あ」

        「吽形(うんぎょう)」、日本の五十音で「ん」で終わります

             ↓   ↓

            宇宙のすべてもの包含する意味があります。  

 

 

そこで、安芸の宮島・・

       「巌島神社」の紹介です・・・・

 

P1110025.JPG-1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  鹿がおで迎えしてくれますよ・・・・・・・・・・・

P1110041.JPG-1.jpg 

とても、人懐っこいですよ・・

 

かわいーー

 

お札が大好きなので、食べられないようにしないとね

 

 

 

少し歩いていくと

 

P1110032.JPG-1.jpg

 
P1110031.JPG-1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだまだ、歩いていきます

 

次に、2対目の狛犬を発見

 

P1110052.JPG-1.jpg

 
P1110051.JPG-1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよ


P1110054.JPG-1.jpg
 

 

 

世界文化遺産  登録

 

   朱色がまぶしいばかりの建物

 

 

廊下を、歩き続けます

 

 

 

 

P1110073.JPG-1.jpg

 

 
P1110060.JPG-2.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1110063.JPG-3.jpg

 

撮影時には、引き潮でなんと・・・

  こんな姿です・・・

 

海に浮かぶと、幻想的ですが・・

 

   この状態もなかなか興味深いです

鏡の池にも、水がないです

 

 


P1110090.JPG-1.jpg

 

 ズーート奥まで歩きます

 


 


 


 


 


 


 


P1110097.JPG-2.jpg


 


 


 
 
  

 

能舞台などがあります

 

 

 

 

 

 

 

P1110092.JPG-2.jpg

 

 建物全体が、海の大きな鳥居に向かってますが、このお宮は何故か海の鳥居に背を向けてます

 

「巌島神社」本堂を、お守りしてるそうです

 

なるほどね・・・

 

 

ここまで、2対の狛犬がいましたヨネ・・

    ここからが狛犬(獅子)の紹介

         能舞台などがあるところに、狛犬が一対いますよ

 

 この狛犬がシンボルをつけてます

  何か・・恥ずかしいような感じですが・・貴重なので掲載します

 

バスガイドさんいわく、「スゴーックめずらしそうです」

  おそれ多いことですが・・・  ごめんなさいね・・

 

        男の狛犬                              女の狛犬

P1110078.JPG-1.jpg
P1110084.JPG-1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光景はさすが・・・巌島神社の、美しさです・・・

 

この写真では、判明しづらいので・・・・

  ドアップにします・・・

  

                      こちらが、男性の狛犬です  

                               わかりますか???

P1110079.JPG-1.jpg

 

 

 

                  こちらが、女性の獅子です

                                   判りますか???

P1110083.JPG-1.jpg

 

       判りましたか??   確かに、ちゃんとありますよ・・・

  左側の、口が開いる「阿形(あぎょう)」が、男の子

           右側には口が閉まっる「吽形(うんぎょう)」が、女の子です

             

                        是非、ご自分の目でご確認くださいね・・・・

 沖縄のシーザーを思い起こしますよね

沖縄の観光で

   ガイドさんの話では、口を開けているのは福を呼び込む(吸い込む!?)

     口を閉じている方はその幸福が出ていかないようにしっかり口を閉じている・・そんなないようでした

 

森鴎外 生家  「舞姫」の詩—扣鈕(ぼたん)の詩碑と内容

森鴎外

 

鴎外の生まれは、石見国鹿足郡津和野町田村横堀。1862年(文久2年)1月19日に誕生。

そうなのです・・・

森鴎外(本名・森林太郎)は文久2年(1862)1月19日石見国津和野に、津和野藩医 森静泰 峰子の長男としてこの家に生れ、明治5年(1872)に10歳で上京するまでここで過ごした。

 

その、幼少の頃に、薬局の伊藤博石堂に、父の処方した薬を取りに出かけたのです・・・

 

その、

 

森鴎外の生家は伊藤家が買い取り、津和野市に寄贈して、現在は重要文化財として保管されているのです。

 

昨日(一等丸 伊藤博石堂)の、当主が買い求め、大切に保存していたのです

 

鴎外の生家。 復元して公開されています。
 森家は、代々、津和野藩主亀井侯の典医を務めていたので、く調剤室も残っています

 

     4畳半の彼の勉強部屋

 

P1100197.jpg

 

 

 

 角にある家具(棚は)

   父、森静泰の使用した薬箱

 

P1100199.jpg

P1100212.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100206.jpg

 

 

左から、

 父の森静男(静泰)

 

中央

 母 森ミネ(通称 峰子)

 

右は、

 森鴎外(本名 林太郎)

 

 

 

 

 

 

 

               森鴎外先生詩碑

P1100191.jpg
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この碑は、鴎外の扣鈕(ぼたん)から佐藤春夫の筆により建立された。

 

  日露戦争中、激戦となった南山の戦いで無くしたカフスボタンを惜しむ詩。

 

    詩碑の題字は漢詩人 土屋竹雨(本名 久素 秋田出身)

 

 

「舞姫」の詩—森 鴎外

 

             扣 鈕 (ぼたん)

           南山の  たたかいの日に
           袖口の  こがねのぼたん
           ひとつおとしつ
           その扣鈕(ぼたん)惜し

           べるりんの  都大路の
           ぱっさあじゅ 電灯あおき
           店にて買いぬ
           はたとせまえに

           えぽれっと  かがやきし友
           こがね髪   ゆらぎし少女(おとめ)
           はや老いにけん
           死にもやしけん

 

           はたとせの  身のうきしずみ
           よろこびも  かなしびも知る
           袖のぼたんよ
           かたはとなりぬ

           ますらおの  玉と砕けし
           ももちたり  それも惜しけど
           こも惜し扣鈕
           身に添ふ扣鈕

 

 

      注釈 20年前、ベルリンで買ったコートの釦を、日露戦争の戦場でなくしてしまった。

           そのころまだ若かった、肩章(えぽれっと) を付けていた友人の将校も、

                 黄金色の髪をなびかせたあの少女も、

                     今ではもう歳老いたか、亡くなったかもしれない。

          20年前の想い出を知るぼたんを戦場で失ってしまった。この戦争で
              多くの人命を失ったことは惜しいことだが、そのときにこのぼたんを
                   失ったことは、自分の青春を失った思いで、とても惜しい

 

  

津和野 伊藤博石堂 一等丸 は、森鴎外も愛用 伊沢 蘭奢も深いつながり

 

津和野には、森鴎外の生家があります。

その、森鴎外の父は開業医をしており、

 森林太郎(鴎外本名)は小さい頃、父の処方箋を伊藤博石堂(薬局)にもって行き、薬を処方してもらったそうです。

 その、伊藤博石堂の一等丸の紹介です。

      森鴎外先生が軍医部長として日露の戦いの出征の時に、

         五代目伊藤利兵衛が選別に差し上げたところ、

            その効能が迅速なことに大変喜ばれて、その後愛用されたそうです

 

 

P1100175.jpg
c0061195_13452062.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陽があたり、ショーケースが反射してしまい残念・・・・

伊藤薬局の大きな木製看板・・

ショーケース右側に伊沢蘭奢という女優のポスターが飾られている。

「女優X・・・・」、テレビ化された作品です。

    六代目の伊藤利兵衛の妻だったシゲさんが、色々とある苦悩の人生を経て、

          離婚後、女優になった話なのです

 

今回、伊藤博石堂(薬局)の接客をしてくださった店主は、八代目伊藤利兵衛さんですから、おばあさんになるんだよね・・・・

 

早速、本を購入しました。

  「女優Xー 伊澤蘭奢の生涯

 

早速、一等丸の紹介です

 

P1100148.jpg

 

漢方薬なのです。

 

薬事法で、第二種に分類されてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100147.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100149.jpg
P1100153.jpg


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
  

 

 
 

山崎光男著 「日本の名薬」 の、なんと第1項に紹介されてます。

P1100150.jpg

 

39の名薬が紹介されていますが 

10ページに、津和野のタカツヤ伊藤薬局で

作られている一等丸が紹介されています。

森鴎外も愛用した胃腸薬  一等丸

 

  

 

 

 

P1100158.jpg

 

棚には、一等丸の袋がズラリー・・・

 

   一等丸は銘薬なのです

 

    看板薬ですよね

 

 

 

 

P1100152.jpg

 

 

中国 北京中医学院 一等丸   とあります

   歴史を感じるね・・・・

 

旅行で食べすぎ・呑みすぎで体調が・・・

  歩くのも、調子が悪くて苦しい・・・

 

ホテルで苦しんでしまいました

二日酔いかな???

 そこで、思い出したのです・・・一等丸のこと

 

 

P1100189.jpg  10粒服用したら・・

  10分くらいで効いてきた

  

すごい・・・

 

ガイドさんが、胃痙攣(いけいれん)になったr、20粒くらい一気に飲めば、10分ほどで嘘のように楽になるそうです

 

 

 

 そもそも、タカツヤ伊藤薬局は 

一等丸の製造元である高津屋伊藤博石堂の創業は寛政10年(1798)で、薬種問屋だった。

伊藤博石堂は代々、伊藤利兵衛を名乗り、現在は八代目です。

 一等丸は、五代目利兵衛が創始した胃腸薬です。

   明治29年(1896)に正式認可が下りて本格的な製造が開始されていた。

     五代目利兵衛は、森鴎外の3歳上で、森家(武家)と伊藤家(町家)は、古くから親交があったのです。 

 P1110256.jpg

一等丸の袋も箱もレトロです

効能・効果

食滞(食べすぎ、飲みすぎ)、しぶり腹(おなかがキリキリする)、食傷(食あたり)、下痢、宿酔(胸やけ、吐き気)疝癪(さしこみ、冷え痛)船車酔、胃腸虚弱である。
 一等丸は急性胃腸疾患のときは、大人で1回、20粒を頓服(一度に飲む)する。薬の趣意書には「効能迅速な点」が鴎外に喜ばれ、「以後御愛用戴きました」とある。
 慢性胃腸疾患には、大人、1回、10粒を一日3回、毎食前に水または白湯で服用。

 

P1110254.jpg
  

 

裏面の効能書きや成分が記述されている。
当薬(とうやく)、千瓱(ミリグラム)
黄蓮(おうれん)、五百瓱
芦薈(あろえ)、 二百瓱
亜仙薬(あせんやく)、 一千瓱
胡椒(こしょう)、 一千瓱
龍脳(りゅうのう)、 一百瓱
小茴香(しょうういきょう)、 三百瓱 
木香(もっこう)、一千瓱
丁字(ちょうじ)、四百瓱
甘草(かんぞう)、三百瓱

 

 

 

P1100165.jpg

P1100166.jpg内モンゴル牛角櫛

 

  静電気が起こりにくい櫛

   1個1050円です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100170.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100169.JPG-1.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

  

P1100171.jpg 

 昔、薬をつぶす道具

 上の左⇒中国

   上の右⇒韓国

     左側 ⇒日本

         の道具です

 

 

 

 

 

 

P1100172.jpg
P1100173.jpg

 

 

 

 

古くからの、薬の道具が

  お店の窓に展示されてます

 

 

 

 

 

 

P1100156.jpg

 

P1100157.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新日本永代蔵 」船橋晴雄著書  企業永続の法則 

20ページに、タカツヤ伊藤博石堂  

        「本の虫」が継ぐ、鴎外ゆかりの漢方薬局                     

 

 

 

P1100155.jpg 

  女優X 伊澤蘭奢の生涯

      (いざわ らんじゃのしょうがい)

     

    夏樹静子 著書

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ)ウンチク

 

伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 – 1928年6月8日)は日本の新劇女優。

島根県出身。本名、三浦シゲ。
島根県津和野に紙問屋の娘として生まれる。東京の日本文学学校卒業後、津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐ。新婚時代は夫と東京に住み、その後一子をもうけ津和野で暮らす。なお、東京時代には、近所に住んでいた、夫の遠縁でまだ学生であった、後の徳川夢声に慕われ、二人の間にはロマンスの噂もあった。
しかし、東京で観た松井須磨子の舞台を忘れかね、演劇を目指すため意を決し離婚。6歳の息子(後の作家、伊藤佐喜雄)を婚家に残し、29歳で上京した。
上山草人主宰の近代劇協会に加わり、舞台女優として歩み始める。しかし、1918年の島村抱月と松井須磨子の死を機に、畑中蓼坡 主宰の日本新劇協会へ参加する。松井亡き後の新劇界をトップスターとして10年もの間に渡って支えた。
1923年には松竹蒲田やマキノ東京と契約し、「三浦しげ子」名義で映画にも出演する。郷里に残した息子に自らを知らしめる目的だった。
1928年、舞台『マダム X』が大当たりする。名実共に大女優の仲間入りを果たすが、同年脳出血で死去、満38歳の若さで帰らぬ人となる。
著書・
素裸な自画像

 

 

畳敷きの珍しい津和野カトリック教会 大浦天主堂のものとおなじ様式

 津和野 カトリック教会は、すごく珍しいのです・・・

登録年月日:平成8年12月20日  登録有形文化財(建造物)
 
 長崎浦上のキリシタン信徒の殉教地として知られる
   
    津和野にビリオン神父によって創設されたもので,現在の建物は昭和4年の再建である。
 
        木造平屋建の単塔式のゴシック様式になり,
  
            簡潔な図柄のスデンドグラスのある教会として親しまれています。
 
P1100120.jpg
 
 
P1100122.jpg
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 朝のミサも終わり、管理人のおじさんが教会内の写真撮影を許可してくれました。

  

   室内は、板の床に普通は椅子が並んでるのですが・・・

        何と、畳が敷きつめてあります。

    

       畳に、正座でミサを受けます・・・

 

 

P1100105.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100099.jpg 

カトリック教会です。

ステンドグラスもあり、

祭壇もありますよ・・・

 

畳・・・・

  ここに、歴史を感じます

 

 

 

隣に、展示室もあります。

P1100119.jpg

 

キリスト教徒弾圧の

 乙女峠の展示室があります

 

 

 

 

 

 

P1100107.jpg
P1100117.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乙女峠は、明治維新後のキリシタン禁止令により改宗を迫られた長崎浦上のキリスト教徒たち(153名)が、幽閉収容された場所。

当時、津和野藩は神道研究で有名で、当主亀井茲監が神道による教道教化に相当な自信を抱いていたため、幕府は浦上の信徒の指導者たちをこの地に預けたのだという。

 

他にも、鹿児島・萩・名古屋等の20ヶ所に、約3400人の信徒が預けられた。

 当初は津和野藩出身の国学者 福羽美静の指導で改宗の試みが行われたが効果がなく、藩は方針を転換し、拷問による棄教を迫り始めたのだという。

 乙女峠で迫害を受け殉教した信徒は、明治6年の帰国までに36名。中には子どもの姿もあった。

 マリア聖堂は、その鎮魂のため、津和野教会神父パウロ・ネーベル氏(別名岡崎氏)によって昭和26年に建立された。

 

P1100109.jpg

 

絵ガラスの下段に書かれてる文字の抜粋

 

 

慶応元年6月17日

 

 津和野乙女峠光淋寺に収容された

     キリスト者達は連日改宗説得を受ける

 

慶応元年(1865)まで、

 役250年間かくれていたキリシタンが

    長崎大浦天主堂で発見され

     明治元年(1868)より、

       おおよそ3500人が流罪にされた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


P1100116.jpg 乙女峠 キリシタン

P1100110.jpg

 

当時の水瓶

 

   乙女峠にて出土されたもの

 

 

 

 

 

 

P1100111.jpg

 

 

白い紙に書かれてる内容は

   

  門並ぶ街に突塔

    天を突く色散りばめたステンドグラス

 

 

ステンドグラスの、下の文字は

 

   5才のもりちゃんは、お菓子の誘惑に

        「天国の味はもっとおいしい」 と答える

 

 

P1100112.jpg

 

乙女峠の使徒

  岡崎祐次郎神父 

   (パウロ・ネーベル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100114.jpg

 

平和を祈り(マッシンジの聖)フランススコ

 

神よ、わたしたちをあなたの平和の

 

 

 

 

P1100113.jpg

  

岡崎祐次郎 (パウロ・ネーベル)神父

 

 

 

 

 

M29.3.29   生出(ドイツ・ロートリンゲン州 フャルスブルグ市)

T4       世界第一次大戦出征 ドイツ帝国軍兵士として聖地エルザレム、ベトレヘムで戦場

S2.8.18    司祭叙階(オランダ)

S4        来日

S21.10.23  津和野カトリkック教会主任神父任命

S22.11.2   初めての殉教者記念式4人

S24       乙女広場つくり

S26.5.13    記念聖堂(マリア堂)完成

S27.5.11    最初の乙女峠まつり

S28      もとの氷漬の池と昔の井戸の掘り直し

S37.7.24   ドイツから帰化

S43.5.3    殉教百年記念碑完成

S51.8.2    帰天(どいつ・ムーンスター市)

 

 

P1100121.jpg

 

 

左の立て札の文字は

 

 

 

 

 

 

この聖堂は神のより天いなら絵置こうと乙女峠36人の殉教者の遺徳をしのびたたえるため1931年建てられました。長崎西坂の日本二十六聖人殉教者の得護のもととおります。

建築様式は新ゴチックとして正面レリープ(紋)はフランシスコ・ザビエルの属していた修道会が十六世紀より使っている紋をかたどったもの。

堂内の中央祭壇は大浦天主堂のものとおなじ様式です。

そして周囲の絵は西暦紀元はじめのキリストのエルサレムにおける受難の時の十字架の道行に十四留(場)がえがかれています

乙女峠は三十六人の殉教者に対する信心はビリオン神父(ネーベル)が25有年熱心に力を書され、乙女峠記念碑を盡てました

この場所は明示のはじめに立てられた

旧藩時代の町年寄堀家の邸であって殿町の通りに向かっている格子窓は茶室の一部でした。現在まで庭園の他のほとりには西郷道郷、乃木希典大将の手植えの記念樹があります。

 

 


キリシタン殉教地「乙女峠」
慶応元年(1865) 長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数のものが、当時フランス寺とよばれて
日本人は立ち入り禁止であった今の大浦天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます」
との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。
徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受けとめたのです。
喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。
鹿児島、萩、名古屋など(
岡山県にも)20ヶ所が選ばれ津和野も加えれました。

キリシタンたちは厳しく改宗を責められましたが、信仰は厚くたやすく棄教させることははできず拷問(減食、氷のはる池に、火あぶりなど)による改宗を行なったのです。年齢、性別をとわず殉教者をだしたのですが 五つの女の子モリちゃんの記録も残っています。 
永井隆 著 「乙女峠」に詳しく記されています。

明治25年ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪差かに葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。
なお第2次大戦後、ネーベル神父(岡崎神父)は乙女峠に記念聖堂を建てそのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所と
なるように心をこめ、力をつくしました。彼が始めた乙女峠まつり(5月3日)は全国から集まった数千人の巡礼者によって
乙女峠の聖母マリア(記録をお読みください)と殉教者たちを讚えるお祝いになりました。
                   {一部を除き津和野カトリック教会 津和野乙女峠より}

 

 

小京都・津和野のマンホール・鯉と金魚の見分け方を教えます

萩・津和野・広島の旅行は

  写真満載・・で、整理に奮闘中・・・・

 

沢山の、面白い話もあります・・・

 

   今回は団体旅行で参加したのですが・・バスガイドさんがモノスゴーーク物知り・・

     メモ帳も、ぎっしりになりました・・・

 

 

 

津和野の、マンホールの写真紹介

 

津和野は、島根県ですよ・・・

 

P1100123.jpg

 

こんな、町並みです・・

 

この、町並みに

 

 

 

 

 

 

P1100125.jpg

 

 

瓦屋根の町並み・・・

 それから、鯉が描かれてます・・・

 

P1100088.jpg

 

鯉がいますよ

 

この鯉は、昔昔・・・

 

食料難なったときの非常食用に飼ったのですが、大きな災害・紛争も無かったので今日に至ってます

700匹の鯉がいるそうです

平均年齢は40歳

 高年齢の鯉は、100年生きてるようです 

おおきな金魚がいます

  金魚といっても、鯉と見間違うほどの大きさなのです

 

  ここで、鯉と金魚の見分け方は

    鯉にはヒゲがあります

    金魚には、ヒゲがないのです・・・・

       知ってましたか??

 

P1100185.jpg

 

 

ここにも、鯉がいる・・・

 と、近づいたら・・・

 

   なんと、偽物

    おもちゃ・置物の鯉でした

 

 

 

 

今回、津和野は2回目の訪問なのですが・・・

  ジックリと散策できたので、たっぷりとお知らせします・・・

    お楽しみに・・