みすずのふるさと 長門市仙崎 童話作家の金子みすゞ

 2009年8月 旅行記から

 

26年の生涯 はあまりにも可愛そうな生涯なのです

  娘がいながら服毒自殺をしてしまう・・・そんな彼女の詩はなんとも暖かいものなのでしょうか?

「わたしと小鳥とすずと」は有名ですが・・・

童謡作家 金子みすゞ 

 長門市仙崎に大きな看板があります

 

 

MEMO0030.jpg『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
 

金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。

 

そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。

 ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。

 それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
 天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

                              

時間の原点-影が時を刻む 日時計 「笠山日時計」

2009年8月 旅行記から 

昨日の陶板モニュメントの隣には
夏みかん・橙・柚子・ポン酢・調味料の製造販売/株式会社柚子屋本店

敷地内に設置されている黒御影石で作った「笠山日時計」は必見!です

●住所 : 萩市越ヶ浜明神池上る 
 

MEMO0010.jpg笠山日時計
笠山日時計は今から350年ほど前、朝鮮の宮廷内外で公衆時計として使われていた日時計の複製品です。
釜が天空を仰ぎ見る姿の日時計という意味で仰釜日?(ぎょうひにっき)と呼ばれます。くぼんだ半球型の受影面に特徴があり、太陽が投影する影針の影で時刻と季節の両方を瞬時に知ることができます。
仰釜日?(ぎょうひにっき)天文学を大いに発展させた李王朝第4代世宗王(1418年から1450年)が開発した。17世紀半ばに西洋式の時刻制度が導入されて制作した仰釜日?(ぎょうひにっき)が現存しており、韓国の国宝(宝物845号)となっています。
現代の時刻制度は「平均太陽時」を使用してます。日時計は時刻を現代時刻と照合する場合には、「真太陽時」を「平均太陽時」に換算する必要があります。この換算のため「時差補正表」が石盤の前面に刻まれています。

  

 

お店ののぼりが画像に後ろに見えます・・

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 かなり有名な日時計とのこと

 

 韓国製のオリジナルの仰釜型日時計は

日本では、精巧に製作された

仰釜型日時計が山口県萩市の

「柚子屋本店」にあり、「笠山日時計」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

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時差補正表です 

 

 

 
 

 

柚子屋本店 萩陶器モニュメント 貴重な大キャンパス  

(2009年8月 旅行記から )

 萩焼きの陶器は有名  そこで紹介

現在ビール工場は閉鎖になってました

そして、駐車場にあるので、気になる人しかわからないくらいに、山沿いに立て札があります

 

 

 萩の空から 萩の土から

  萩陶器板モニュメント

農民画家メレー「種蒔く人」を題材としており、萩焼当番357枚でつくられてます。

大型の陶器作品は萩焼きではまだ例が少なく多くの人々に萩焼の魅力が伝わること願い、ここ北長門海岸国定公園内の笠山に設置しました。モニュメントの前の畑には 萩ビール村塾に使用してる二条大麦を植えています。

萩焼は2002年1月国の伝統的工芸品として指定を受けてます

 

設置年月日  2003年11月

陶板制作者 樋屋勝枝

本体構造 鉄筋造り(幅5.17m、高さ7.48m、鉄筋重量3トン)

陶板寸法 全体(幅4.6m、高さ5.6m、陶板の総重量643kg)

       1枚(26.5cm?26.5cm?暑さ1.5cm)

陶板枚数  357枚(ヨコ17枚?タテ21枚)  

 

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 その、陶板はこれです

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 本当に、あるので宣伝用の看板にしかみれません

 

多くの観光客の脚光はあびず、

  ひっそりしてます 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
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 人が前に立って

 遠近法でこの大きさ

 

  かなりの大きさです・・・

 

 1枚1枚が陶器で焼いてあるのです

  陶器も1枚が同じ色ではなく

   濃淡があり、かなりのすごい技

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広島平和公園 原爆死没者慰霊碑と原爆ドームの構図

 

2009.9.1の続編です

広島の平和公園

 実はこの公園は、直線 で構成されてます・

 

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 献花されてます

 

お水が常に慰霊碑のところにあります

 

きっと、さぞかしお水が欲しかったのでしょうね

 

戦争・紛争にない世界になることをお祈りします 

 

 

 

原爆死没者慰霊碑は、犠牲者の霊を雨露から守る為、植輪の家形にデザインされました 

   正面から原爆ドームが望めます                

 

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 原爆ドームの対岸には

  広大な敷地を持つ平和記念公園が広がっている

 

 原爆死没者慰霊碑

原爆ドーム 

 全てが一直線になってます

 

 

 

 

 

 

 

原爆子の子の像 佐々木禎子さんの像が建立されるまで

 アメリカ・オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞された

  また、広島長崎市が共同で20年夏季五輪の招致を検討すると表明した

     そして、本日は米国のジョン・ルース大使が広島平和記念公園に訪れた・・

 核兵器は、本当に世界から消えるのでしょうか??

    以前、美輪明宏さんのコンサートに行ったことがあります

     その中で、美輪明宏さんが「戦争の悲惨さ」切実に話されてました・・・

   被爆国 日本はもっと、もっと、発信したいのですが、管理人も含めて本当に被爆・原爆について真剣に向き合ってるのかと自問自答してしまいます。

   

(2009.9.1訪問)

 

    ここが、原爆の子(千羽鶴の塔) 佐々木子さんの像です

      折り鶴は、子さんが病気の回復を祈って、折っていた折鶴をモチーフにしてます

          

 

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建立年月日 

1958(昭和33)年55日(こどもの日)

 

 

建立者

広島平和をきずく児童・生徒の会

 

制作者

菊池一雄(当時・東京芸大教授)

この像は、禎子さんの旧友たちの

 

 心のこもった運動で建立されました

 

 

碑文

「これはぼくらの叫びです

   これは私たちの祈りです

     世界に平和をきずくための」

 

 

 

 

 

 

 バスガイドさんの説明は

 

 

  2歳で被爆した禎子さんは、とても、元気な明るい子供で、クラスでも人気者でした

  

  ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断されました。

 

    担任の先生から提案がありました。

 

    「みんなが毎日は病院にお見舞いにいけないが、

        行ける人がバラバラでお見舞いに行ったらどうだろうか?」

 

    そこで、竹組のお友達(クラスメート)達は、

        2人3人で毎日毎日いろんなお友達がお見舞いに行ってました。

    

    が、小学校も卒業して、中学校に入学し、竹組のクラスメイトはバラバラになり、

         いつしか貞子さんの病院のお見舞いに行く人はいなくなってました・

 

  そんな中、先生から「佐々木禎子さんは亡くなりました」と、報告を受けたそうです。

 

     病院で、回復を祈っの闘病生活の後、1955(昭和30)年1025日に短い生涯を終えました

 

 

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 禎子さんが亡くなり、子供達は自分達に何が出来るのか?

  と、考えました。

 何も出来なかった悔しさがあたのです。

  みんなで話し合いました

   「サダコちゃんのお墓をたてられないだろうか?

      近くにお墓があったら、毎日お参りできるから・・」

 

 同級生は立ち上がりました

  原爆野犠牲になった子供のために、平和記念公園に像を作ったらどうだろうか?

 

 

募金を集めるために、紙に自分達の気持ちを書いて印刷しました。

  当時、ガリ版という手法で印刷しました。

   なかなか、募金は集まりませんでした。

     あるとき、全国の小学校の校長先生の集会があったのです。

      その校長先生達にも、ガリ版印刷した紙を手渡ししたそうです・・・

       なかなか読んでもらえなかったのですが・・・

北海道の校長先生が、自宅に帰って手渡しされた紙を読んで、感銘をうけたのです。

  その校長先生が学校で話したり、校長間で話が伝わり次第に和が広がりました。

 

     全国の3100校以上の学校

      イギリスをはじめ世界9か国からの支援

        「建設に役立てて欲しい」と、多くの手紙と募金が集まったのです

 1957(昭和32)年1月、平和記念公園のなかに「原爆の子の像」を建設が正式に決まったのです

    像の完成は、佐々木禎子さんが亡くなって2年後の、1958(昭和33)年のこどもの日です

 

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三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)がある。(高さ9m)

 

像の下に置かれた石碑には、

  「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです

           世界に平和をきずくための」

            という碑文が刻まれている。

 

 

 

 

 

 

佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、

                                世界に平和を呼びかけること  

 

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 塔の内部には、少年少女たちの気持に感動した

  ノーベル物理学賞受賞者である

    湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」

  「地に空に平和」の文字が彫られた

     銅鐸を模した鐘がつられ、

      その下に金色の鶴がつるされ、

         風鈴式に音がでるようになっている。

 

2002(平成14)年4月には、「原爆の子の像」に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブース)が整備された 

 

 

 

 

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 広島平和記念資料館に展示 

     2歳のときに広島市に投下された 

       原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。

 

同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。

  1954年8月の検査では異常なかった。

    しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめました

(資料館の中のモニター画面です)

   ※資料館愛はフラッシュをたかなければ撮影は可能でした

 

1955年1月にシコリが おたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。

   病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ

         白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。

              募金のために子供達が書いた文面もありました。

 

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 禎子さんは  「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました 

鶴は次第に、ドンドン小さくなりました 

 

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 薬の、袋でも、折りました・・・なんと、悲しい鶴なのでしょうか・・

 

         鶴の姿に折られることのなかった   折りかけの鶴 です。。。

                        細かい鶴には針を使って折ったそうです

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闘病生活で折っていた

 佐々木 禎子さんが、 セロハンで折った鶴です。 

しかし、鶴は最後まで折られなかったのです・・・

 

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  佐々木禎子さんの折り鶴

現在の千羽折鶴は、病気回復・長寿などの願いがありますが、そのルーツは佐々木禎子さんの折り鶴が起源といわれてます

1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に23羽ずつ参列者に配られ、擱に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島へ宇和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われる。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。

 

安芸の宮島 あなごめし「うえの」紹介  ラッキーな昼ごはん 

 2009.09.01訪問

 

安芸の宮島

  観光は自由行動になりました

     自由時間後、再度 JR宮島口駅構内に集合

       駅から、遠くない距離でおいしい食事が希望なのですが・・

         はたして、そんなお店あるのかな?

 

   団体の予約の昼食は今回は頼まず、時間があるので何かおいしいご飯を求めて・・・・

 

    地元の人に伺ったら、

             「うえの の 穴子飯がいいよ・・

                    でもね・・・  まず混んでるからね・・・

                         ずっと、待つからね・・・・

                            場所はスグそこよ・・・」

 

     厳島神社のある広島県宮島の名物とのこと・・・

 

       とにかく・・・お店に直行・・・

          自由行動の時間では食べれないと観念しながらも、まず外観だけでも見たい・・

 

             うそ^^^  人がいません・・・

                

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     すいすい・・・   と、店内に入ってしまいます・・・・ 

 

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混雑してるときは、

うえのアナゴ飯のお店の隣の

「上野商店」の中で、順番を待ちます。

この酒屋さんの、二階に居酒屋があるそうです

「他人吉」という、居酒屋さん

昔の建物のまま、ゆったりとした面持ちのお店だそうですが・・・

 

手前に、木のロボットがいます。

 

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  この、ロボットが、2階のご案内係りとなってます

 

木製のロボットなのです・・・  面白いな・・

表通りには、玄関がないので、このロボットが目印

 

以前のお住まいを

     そのまま使ってるそうです

今回は、入れませんが・・

  いつか、また・・・の再訪を楽しみに・・

 

 

 

 

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 まずは、うえのの入り口にある用紙に

      名前を記入・・・・

  それから、

   店の外とか、上野商店の店内で

        待機してますよ・・

 

 

 

 

 

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 店の前には、ショーケースあります

  混雑してないので、ゆっくり見るまもなく・・

 

    さすが・・・

      しゃもじが大きい・・・

 

   宮島にはシャモジ・・

     その関連は・・後日、ご紹介します

 

 

うえのの「駅弁」  アナゴ弁当が陳列 

 

 

うわさでは、冷めても絶品な穴子弁当だそうです・・

  これもまた、次回のお楽しみに・・・

    旅行は、胃袋が大きくないと・・・楽しみも半減かな??

     胃の動きを活発にしてくれるためにも、津和野で買った一等丸を飲んでいかなくては・・

 

 店内は、昔ながら・・・・

  観光客ヨ路も、地元の方が多いようです・・・

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 瀬戸の穴子は、白焼きがオススメですが・・・

    今日は、「あなごめし」を注文

      待つこと・・・少し・・・・

 

   現在は、 十三代目 上野純一氏

       この発祥は 十代目 上野他人吉氏 です。        

 

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 これが、あなごめし・・・・

       うなぎのどんぶりみたいな感じですが・・・・

           容器は、木のくりぬきを使用してます

                    赤だしと香の物がついてます 

 

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 てりが、ピカピカ・・・・・・・・・・・・    しょうがもついてます

                                     

   

 鰻のように、タレを頼みました・・・

 

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アレレ・・・これだけ??

  と、思ってしまいましたが・・

 

    食べて納得・・・

 

 

 

 

 

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ご飯は、鰻のように白米ではありません

  

   炊き込みご飯となってます・・・  

 

    少々薄い茶色になってます 

 

            味は、薄味

ご飯に味があるから、タレは少なめ・・納得

 

 店内は、かなりすいてましたが・・・  食べ終わる頃には・・・待ちのお客さまで大混雑になりました

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  時間帯が、超ラッキー   ・・・

    宮島の名物を賞味できました・・・良かったな・・・

       

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 山本益博の「考える舌」

  いわゆる・・

 

 山本益博(やまもとますひろ)さんは、

  食べ歩きの「料理評論家」

   料理はしない、おいしい料理を紹介する著者なのです

その、著書のなかに紹介されてますヨ

 

 

 

ヒロシマ 広島原爆ドーム 「負の世界遺産」  世界平和を!!

2009.9.1

 「世界遺産登録」多くの史跡があります

     日本では、法隆寺地域の仏教建造物

           厳島神社  

                 

             白川郷・五箇山の合掌造り集落  などがあります

 

 その中で、なんて悲劇的な「世界遺産』なのでしょうか・・・ 

   

       「負の世界遺産」 =広島の原爆ドーム

 

           二度と同じような悲劇が起こらないように・・戒めや願いが込められてます

 

               「負の世界遺産」 の、厳密な定義は無いのですが・・・

                  

                  負の世界遺産・・・辛く悲しい・・人間の愚かさが引き起こしたもの

 

          

          1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、原爆投下   

           

 

バスガイドさんの説明は

 

   「あえて、広島・長崎には原爆を投下する予定があったので、

 

       空襲の拠点からはずしたのです・・その理由は、

 

          市街地が空襲で破壊されると、原爆投下のポイントが定まらないからです。

 

                 広島は相生橋のTの文字を目標にしたのです・・・」        

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原爆ドーム

 

広島平和記念公園

 からの 

   写真です

 

 

 

 

 

 

   原爆ドーム内部に立ち入ることはできません。

             入場できる施設ではありませんので、外からの見学になります 

  

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1996年(平成8年)12月、

 

ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、

 

核兵器の惨禍を伝える建築物として

 

世界文化遺産に登録されました。

 

 

        指定範囲


 

原爆ドームの所在する地域/約0.39ヘクタール

 

 

原爆が投下される前は

 

 

  

 

原爆ドームは、

 

1915年(大正4年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられました。

 

広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。

 

設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でしたが、

 

 その後「広島県商品陳列所」、1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」に改称されています。

 

設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏。

 

構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。

 

  全体は3階建で、正面中央部分に5階建の階段室、

 

  その上に銅板の楕円形ドームがのったモダンなものでした。

 

     当時は、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、

 

       川面に映えるモダンな美しさとあいまって広島名所の一つに数えられていました。

 

 

 

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ドーム鉄骨部分がむき出しの残骸と化し

 

 いつからともなく市民の間で

 

   「原爆ドーム」と

 

     呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

■「負の世界遺産」■

原爆ドーム(広島平和記念碑)(日本

核兵器の悲惨さを伝える建物。広島原爆で辛うじて残った、元広島県産業奨励館。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ポーランド

ナチス・ドイツユダヤ人を虐殺した強制収容所

ゴレ島セネガル

奴隷貿易の拠点となった島。

ザンジバル島のストーン・タウンタンザニア

東アフリカの主要な奴隷交易港。

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群アフガニスタン

重要な巡礼地であったことから、度重なる攻撃を受けた。

ロベン島南アフリカ共和国

人種隔離政策に反対した人達が収容された島。

広島平和記念公園 被爆したアオギリの木・ヒロシマの歌2曲 

 

2009.9.1

広島に一度は行ってみたかった・・

 今の平和に暮らせる幸せに感謝して、

   絶対に広島・長崎には訪問したかった・・・

  今回の旅行の第一目的は「広島平和記念館」の見学です

 

     展示場に入る前に、まず「アオギリの木」の紹介をされました

       まったくの自分の知識に無さを実感・・・・

 

 

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 団体旅行でこなければ   きっと、この木々を見落としたと思います 

          バスガイドさんが、紹介してくれました

 

 

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 ガイドさんのお話

「 原爆投下で、人々は自分のことで一杯

木々に事などは、まったく気遣うことすらできなかったのです

広島には75年間草木は生えないといわれてました

その翌年の春には、幹が半分になった青桐は、3本とも新芽を出しました。

原爆に負けず、たくましく生きるあおぎりは、

当時、原爆の怪我・後遺症で苦しみ

絶望のドン底にいた人々に、

大きな生きる希望を与えてくれました。

  少しずつ時間がたち、気づくと   

    アオギリは生きていました

本来は大きく成長する木なのですが

        背丈は延びません・・

   しかし、生きるアオギリの木を見て、

    自分達の生きるエネルギーに写しかせねたそうです」

 

    ガイドさんの、お話をきいて・・泣いてしまいました・・・・

     どんな、気持ちでいたんだろう・・

       今の、広島はすごく大都市となってます・・・

        この、力はどこにあるのでしょうか?  広島の人々を尊敬してしまいました

 

  

☆被爆アオギリ☆

 

1945(昭和20)年8月6日に広島に原爆(リトルボーイ)が投下され、

           「広島には75年間草木も生えないだろう」といわれていた。

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そんな中、爆心地から約1300mのところにある

 

広島市基町(現:中区東白島町)の広島逓信局

 

(現:日本郵政公社中国支社)の中庭の被爆し、

 

爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼け

 

てえぐられたアオギリ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






原爆の悲劇にも負けずに、たくましく育ったアオギリは、

    

   当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、

          

        現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。

 

 

原爆の悲劇にも負けずに、たくましく育ったアオギリは、

    

   当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、

          

        現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。

 

 

その(被爆した)アオギリは、

 

    1973(昭和48)年5月に平和記念公園・平和記念資料館東館北側緑地帯へ移植された

 

          (移設されたのは当初3本であったが後に1本は枯れ、現在は2本)。

  

 

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被爆したアオギリ

 

市内東白島町の中国郵政局(旧広島逓信局)の中庭(爆心地から約1300m)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられましたが、その傷跡を包むように成長を続けています。

 

 

 

 

1973(昭和48)年5月に現在地へ移植されました。

 

 

  

 

 

 

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 被爆アオギリ二世

 

平成12年(2000年)夏、

 

この場所から約10mはなれた植え込み

 

の中で自然の実生から育っていた

 

『被爆アオギリ二世』と確認できる

 

苗木が見つかりましたので

 

平成15年(2003年)3月19日に

 

移植しました。

 

 

 

 

 

 

 

Metisさんの 母賛歌」

 

       日本テレビ系「誰も知らない泣ける歌」の放映で爆発的に視聴された歌です

 

    その、

 

Metisさんが、原爆の悲劇を語った歌です。スッゴク、綺麗な声です・・・ 

     

     歌詞だけでも読んでください。  

          

           もしよかったら、視聴してください

 

http://www.youtube.com/watch?v=wKAuI6uf1cA

 

 

          アオギリの木の下で・・・


         歌・作詞・作曲 Metis

 

 

 

          祈りこめて今日も流れる太田川         P1100822-1.jpg 
           夏の日に高く羽ばたく千羽の鶴
              アオギリが問いかけ息をする
                あの日のことは未だ解けきれぬまま         

              蜃気楼に奪われたあなたへの一言
                  誰もが明日を夢見てた頃
                あなたに伝えたいことが
                     時代を超えてここにある

                    I long for wish peace at all               

 
 
                 愛に溢れた眼差しを 
                    静かに眠りたもう        
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                   過ちは繰り返しませぬから

                    浮かんでゆれる 声無き命の
                    叫びがあの日を語り始める
                 新たな時代がそこまで来ている
                 君の目にそれはどう映る          


                    機械が心のありかを忘れさせる          
                    便利が自由を変えてゆく               
                    我らに神が試している
                  誰もが手をとり歩める時を

                    咲いては散る花のように      P1100847.jpg   
                       記憶もいつか薄れるように
                  だけど あなたには分かって欲しい              
                   悲しみは未だ解けきれぬまま           

                   I long for wish peace at all         
                     愛に溢れた眼差しを
                      静かに眠りたもう
                 過ちは繰り返しませぬから

             I long for wish peace at all
                 愛に溢れた眼差しを
                  静かに眠りたもう
                  過ちは繰り返しませぬから

 

★広島の歌グランプリ「アオギリのうた」   作詞・作曲/森光七彩

 

   電車にゆられ 平和公園
   やっと会えたね アオギリさん
   小学校の校庭の木のお母さん
   たくさん たくさん たね生んで
   家ぞくがふえたんだね よかったね
   遠いむかしのきずあとを
   直してくれるアオギリの風
   遠いあの日のかなしいできごと           

 

   資料館で見た 平和の絵
   いろんな国の 人々や
   私がみんなが考えてゆく広島を
   勇気をあつめちかいます
   あらそいのない国 平和の灯(ひ)
   遠いむかしのできごとを
   わすれずに思うアオギリのうた
   これから生まれてゆく広島を大切に 

   広島のねがいはただひとつ
   せかい中のみんなの明るい笑顔

 

 

 

  

 

 平和の時計塔

 

2009.9.1

 

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 いつまでも、世界が平和であってほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平和の時計塔

 

 「核原子力の出現により、
人類はいま生か死か、破滅か、繁栄かの岐路に立っている。
ひろい世界を同じ心で一つに結ぶ、全世界のライオンズ会員が平和実現のために果たす役割りは大きい。
原爆ドームの永久保存に呼応し、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴え、人類の恒久平和実現の一日も早からんことを祈り、この時計塔を建設し、市に贈るものである。

    昭和42年10月28日

      チャーター伝達10周年を記念し

      広島鯉城ライオンズクラブ」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界遺産 巌島神社  干潮の全貌 第3段 写真で紹介

安芸の宮島

  干潮の全貌 第3段  本殿の紹介  

   2009.9.27ブログ 安芸の宮島 巌島神社 干潮 鳥居の地面からの姿 貴重な画像

     の続きです・本殿の紹介

 

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世界遺産 入り口

 

世界文化遺産 の木の看板

 

この廊下は、廻廊(かいろう) といいます

廻廊は幅4m、長さは約275m。床板の間に目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしています。

 

 

 

 

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 朱色の本殿は、あでやかの中に厳かさがあります。

                                   「鏡の池」水がありません・・・

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すべての、建物には水がなく、なんか寂しい景色でしょ 

五重塔はすごく、存在感があります

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五重塔(ごじゅうのとう)《重要文化財》

千畳閣の隣に建つ五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい塔です。高さは27.6m。応永14年(1407年)に建立されたものと伝えられています。内部は完全な唐様で、一般の見学はできませんが、内陣天井に龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、裏には白衣観音像などが極彩色で描かれています。塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。またこの五重塔が建つ塔の岡は、厳島合戦で陶軍が陣を構えたと伝えられています。

 

 

 

海に浮かぶと、優雅なんですが・・ 

 

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 ここが、床から地面についてる、小さな柱になってます

 

 

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 能舞台もあります。 

 
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能舞台(のうぶたい)《重要文化財・江戸時代》

 

国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台。現在、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの1つでもあります。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演がその始まりとされ、慶長10年(1605年)には福島正則が常設の能舞台を寄進。現在の舞台と橋掛及び楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680年)のことです。この能舞台は海上にあるため通常は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕(かめ)がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっているのが特徴。春の桃花祭神能がこの舞台で演じられるほか、茶道表千家と裏千家家元が隔年交互に執り行う献茶祭ではここでお茶が点てられ御神前に献じられます。

 

 

 

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平舞台(ひらぶたい)《国宝・平安時代》

寝殿造りの庭にあたる部分で、広さは167.6坪(約553平方メートル)。安元2年(1176年)、平氏一門が社参して千僧供養が行われた際、社殿の前方に仮廊を設けたという記録があり、こうした仮廊が常設となったものともいわれます。前方には火焼前(ひたさき)と呼ばれる突き出た箇所があり、管絃祭の出御・還御はここから行われます。また他の社殿の束柱は木造ですが、この平舞台を支えるのは、毛利元就によって寄進されたと伝えられる赤間石の柱。火焼前分と合わせると239本あります

 

 

 

 

 

 

 

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高舞台(たかぶたい)《国宝・平安時代》

本社祓殿前にある、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらし前後に階段をつけた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられます。舞楽の舞台としては最小のもの。現在の舞台は天文15年(1546年)、棚守房顕によって作られたもので、当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような作り付け構造になったと考えられています。

 

 

 

 

 

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この、お宮は大鳥居を背に建てられてます

 

本殿を守る、お宮となります

 

 

 

 

 

 

  

 右を見ても、左を見ても、海はどもにありません 

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 わたる、橋すら・・・水が名の野です

 

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反橋(そりばし)《重要文化財》

かつては重要な祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったことから別名・勅使橋(ちょくしばし)とも呼ばれました。現在の橋は、弘治3年(1557年)に毛利元就・隆元父子によって再建されたもので、擬宝珠の一つに刻銘が残っています。

 

 

 

本殿から見る、大鳥居になります。

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                   大鳥居からにた、本殿となります。 

 

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 本殿(ほんでん)《国宝・平安時代》

繊細かつ華麗な切妻両流造りで、正面には緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がはめられた本殿には、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られています。屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れた寝殿造りならではの様式が特徴です。現在の本殿は元亀2年(1571年)、毛利元就によって改築されたものです。

 

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  大鳥居 おおとりい

 本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。