畳敷きの珍しい津和野カトリック教会 大浦天主堂のものとおなじ様式

 津和野 カトリック教会は、すごく珍しいのです・・・

登録年月日:平成8年12月20日  登録有形文化財(建造物)
 
 長崎浦上のキリシタン信徒の殉教地として知られる
   
    津和野にビリオン神父によって創設されたもので,現在の建物は昭和4年の再建である。
 
        木造平屋建の単塔式のゴシック様式になり,
  
            簡潔な図柄のスデンドグラスのある教会として親しまれています。
 
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 朝のミサも終わり、管理人のおじさんが教会内の写真撮影を許可してくれました。

  

   室内は、板の床に普通は椅子が並んでるのですが・・・

        何と、畳が敷きつめてあります。

    

       畳に、正座でミサを受けます・・・

 

 

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カトリック教会です。

ステンドグラスもあり、

祭壇もありますよ・・・

 

畳・・・・

  ここに、歴史を感じます

 

 

 

隣に、展示室もあります。

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キリスト教徒弾圧の

 乙女峠の展示室があります

 

 

 

 

 

 

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乙女峠は、明治維新後のキリシタン禁止令により改宗を迫られた長崎浦上のキリスト教徒たち(153名)が、幽閉収容された場所。

当時、津和野藩は神道研究で有名で、当主亀井茲監が神道による教道教化に相当な自信を抱いていたため、幕府は浦上の信徒の指導者たちをこの地に預けたのだという。

 

他にも、鹿児島・萩・名古屋等の20ヶ所に、約3400人の信徒が預けられた。

 当初は津和野藩出身の国学者 福羽美静の指導で改宗の試みが行われたが効果がなく、藩は方針を転換し、拷問による棄教を迫り始めたのだという。

 乙女峠で迫害を受け殉教した信徒は、明治6年の帰国までに36名。中には子どもの姿もあった。

 マリア聖堂は、その鎮魂のため、津和野教会神父パウロ・ネーベル氏(別名岡崎氏)によって昭和26年に建立された。

 

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絵ガラスの下段に書かれてる文字の抜粋

 

 

慶応元年6月17日

 

 津和野乙女峠光淋寺に収容された

     キリスト者達は連日改宗説得を受ける

 

慶応元年(1865)まで、

 役250年間かくれていたキリシタンが

    長崎大浦天主堂で発見され

     明治元年(1868)より、

       おおよそ3500人が流罪にされた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


P1100116.jpg 乙女峠 キリシタン

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当時の水瓶

 

   乙女峠にて出土されたもの

 

 

 

 

 

 

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白い紙に書かれてる内容は

   

  門並ぶ街に突塔

    天を突く色散りばめたステンドグラス

 

 

ステンドグラスの、下の文字は

 

   5才のもりちゃんは、お菓子の誘惑に

        「天国の味はもっとおいしい」 と答える

 

 

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乙女峠の使徒

  岡崎祐次郎神父 

   (パウロ・ネーベル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平和を祈り(マッシンジの聖)フランススコ

 

神よ、わたしたちをあなたの平和の

 

 

 

 

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岡崎祐次郎 (パウロ・ネーベル)神父

 

 

 

 

 

M29.3.29   生出(ドイツ・ロートリンゲン州 フャルスブルグ市)

T4       世界第一次大戦出征 ドイツ帝国軍兵士として聖地エルザレム、ベトレヘムで戦場

S2.8.18    司祭叙階(オランダ)

S4        来日

S21.10.23  津和野カトリkック教会主任神父任命

S22.11.2   初めての殉教者記念式4人

S24       乙女広場つくり

S26.5.13    記念聖堂(マリア堂)完成

S27.5.11    最初の乙女峠まつり

S28      もとの氷漬の池と昔の井戸の掘り直し

S37.7.24   ドイツから帰化

S43.5.3    殉教百年記念碑完成

S51.8.2    帰天(どいつ・ムーンスター市)

 

 

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左の立て札の文字は

 

 

 

 

 

 

この聖堂は神のより天いなら絵置こうと乙女峠36人の殉教者の遺徳をしのびたたえるため1931年建てられました。長崎西坂の日本二十六聖人殉教者の得護のもととおります。

建築様式は新ゴチックとして正面レリープ(紋)はフランシスコ・ザビエルの属していた修道会が十六世紀より使っている紋をかたどったもの。

堂内の中央祭壇は大浦天主堂のものとおなじ様式です。

そして周囲の絵は西暦紀元はじめのキリストのエルサレムにおける受難の時の十字架の道行に十四留(場)がえがかれています

乙女峠は三十六人の殉教者に対する信心はビリオン神父(ネーベル)が25有年熱心に力を書され、乙女峠記念碑を盡てました

この場所は明示のはじめに立てられた

旧藩時代の町年寄堀家の邸であって殿町の通りに向かっている格子窓は茶室の一部でした。現在まで庭園の他のほとりには西郷道郷、乃木希典大将の手植えの記念樹があります。

 

 


キリシタン殉教地「乙女峠」
慶応元年(1865) 長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数のものが、当時フランス寺とよばれて
日本人は立ち入り禁止であった今の大浦天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます」
との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。
徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受けとめたのです。
喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。
鹿児島、萩、名古屋など(
岡山県にも)20ヶ所が選ばれ津和野も加えれました。

キリシタンたちは厳しく改宗を責められましたが、信仰は厚くたやすく棄教させることははできず拷問(減食、氷のはる池に、火あぶりなど)による改宗を行なったのです。年齢、性別をとわず殉教者をだしたのですが 五つの女の子モリちゃんの記録も残っています。 
永井隆 著 「乙女峠」に詳しく記されています。

明治25年ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪差かに葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。
なお第2次大戦後、ネーベル神父(岡崎神父)は乙女峠に記念聖堂を建てそのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所と
なるように心をこめ、力をつくしました。彼が始めた乙女峠まつり(5月3日)は全国から集まった数千人の巡礼者によって
乙女峠の聖母マリア(記録をお読みください)と殉教者たちを讚えるお祝いになりました。
                   {一部を除き津和野カトリック教会 津和野乙女峠より}

 

 

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